茶の湯の歴史
日本における茶の湯の歴史は鎌倉時代、宋で修業をしていた栄西禅師(ようさいぜんじ,1141~1215年)が帰国時に茶の種子を持ち帰り、栽培、茶の葉を粉末状にし茶を立てる「抹茶法」から始まります。
この喫茶(茶を飲むこと)は民間へと徐々に広まっていき、静かな雰囲気の中で行われることが主となりました。
戦乱の世へ入ると、社会問題への対策を講じる場として大広間・大人数での集会が行われる際、その宴会の一部に「茶寄合(ちゃよりあい) 別称:婆佐羅(ばさら)」と呼ばれる喫茶や、茶の産地を当てる一種の賭博のような「闘茶(とうちゃ)」が流行します。
この流行により、それまでの茶の楽しみ方とは趣向が変わっていきました。
しかし茶寄合の雰囲気での喫茶を好まない人もいたため、大広間の中に屏風で囲いを設け少人数で茶を楽しむこともありました。これは現代でも茶室のことを「囲い」と呼称する由来となります。
そののち、書院造りの空間での茶事が行われるようになります。この文化への変遷の中、宋から「台子(だいす)」と呼ばれる上下の板を4本の柱で支えた形状のものや、「風炉(ふろ)」という銅や陶器・鉄などでできた小型の火鉢が渡来し、
当時の茶事に用いられようになりました。このとき、書院には天目茶碗や唐物茶入、台子や風炉など道具類を飾り、各々の茶道具の話や身分によって設けられた点前の違いなど格式を重んじるようになっていきます。
これは通称「書院の茶」と呼ばれます。当時の茶のたしなみの流れは、別の場所で茶を立ててから集いの場まで運ぶという方式がとられておりました。
この鎌倉時代、文化を重んじていた八代将軍の足利義政(あしかがよしまさ,1435~1490年)は銀閣寺と東求堂(とうぐどう)を建立します。
特にこの東求堂においては、一室に同仁斎(どうじんさい)と呼ばれる書院造りの室を設け、義政の往年の収集品である「東山御物(ひがしやまぎょもつ)」を飾っていました。
義政はその中から台子と風炉を用いて同朋衆と共に茶事を行いました。このとき、それまでは別の場所で茶を立てていた茶事ではなく、ひとつの室の中で茶を立てて、茶を喫しておりました。
これはのちに完成する「茶室」の始まりでした。
時を同じくしてこの頃、茶の湯の精神を学び深めていったのは「わび茶」の祖として有名な村田珠光(むらたじゅこう,1422~1502年)でした。
珠光はわび茶を深めていく中、考え方として不足の美を取り入れております。
それは茶室における装飾などを極限まで排することにより、その不足した部分を心の豊かさで補う茶の世界を目指したものです。
珠光が残した有名な言葉に「月も雲間のなきは嫌にて候」があります。
これは月も雲ひとつ無い状態には嫌気がさす、つまりは雲のないところで光り輝く月よりも、雲間に見える月の方が趣を感じられるという解釈になります。
ここから得られるように珠光の目指した茶の世界はわびさびの根本を築いたものでした。
後に珠光より茶の湯の精神を継いで武野紹?(たけのじょうおう,1502~1555年)でした。もとは連歌師として活動し、新しい芸術の領域として「茶の湯」の世界へ入り込み、村田珠光の門人である村田宗珠や十四屋宗伍らを師としてわび茶についてを追求していきます。紹?は藤原定家の歌である”みわたせば 花ももみぢも なかりけり 浦のとまやの 秋の夕暮”をわび茶の真髄としてします。
歌を訳すと”見渡してみると、美しい花も紅葉も見当たらなく、映るのは浜辺の漁師の小屋だけ。なんともわびしい秋の夕暮れであること。”となります。
これは珠光の持つ不足の美であることと同じく、足りないことに満たされ、慎み深い心を持つことで紹?はわび茶と向き合っていきました。
そして紹を師として仰ぎ、わび茶を大成させたのは千利休(せんのりきゅう,1522~1591年)でした。利休は15世紀まで盛んだった喫茶や茶事を排し、四畳半よりも小さな茶室で茶事に必要な最小限の道具を用い侘びの喫茶法をつくりだしました。
この考え方で作られる茶室のことを「草庵茶室」と呼びます。草庵茶室には利休の考えるわび茶の精神を重んじた創意工夫が施されています。それは使われている素材や天井の高さ、開口部分など多岐にわたります。
利休は生涯の中で織田信長(おだのぶなが,1534~1582年)に召し抱えられ、豊臣秀吉(とよとみひでよし,1537~1598年)の側近として活躍し、最期は秀吉により切腹を命じられ人生の幕を閉じました。
現代における茶の湯の世界は彼らが紡いだ大きな歴史の上にあります。
※諸説あります。予めご了承ください。